記号化されたアイドル・中島健人と、普通を主張する「特別」な存在・菊池風磨〜シンメとしてのふまけんが持つ魅力を考える〜

 

  近頃、「ふまけんクラスタとは格段に少なくなったものだ。
 
デビュー当初の「とりあえず入りはふまけんから」な時代はとうに過ぎたのだろう。
幼く頼りなかった下3人は心も身体も成長し、今やそれぞれが個性豊かなキャラクターを確立、立派にSexyZoneらしさを形作る存在となった。
(あくまでも、ここで言うSexyZoneらしさとは、5人のSexyZoneを前提とした話である。)
 
もはや、一度ふまけんを通ってから箱推しに至る一般的経緯は不要。
ふまけんクラスタがかつてより減少したことに対しては寂しいものがあるが、下3人の成長という観点から見れば、嬉しい理由であろう。
 
 
  ふまけん自体が、他のメンバー同士と比べてそもそも大きく絡む機会が減ったことも理由の一つと思われる。
 
 まだ幼い3人を任されグループの未来を託されたのは、弱冠16,17歳の2人の少年。
Jr時代から人気を誇っていたメンバーで、グループ内では年長者とは言え、デビューの重責は計り知れない。
不安や動揺を誰よりも大きく感じつつ、世間の期待を“2人”が最も強く受け止め、“2人”で誓いを立て、そして“5人で”乗り越えるための先頭に立った。
頼るものが互いの存在しかなかった当時のふまけんは、Jr時代より一層、彼ら自身がふまけんをふまけんたらしめた。その在り方そのものが、ファンの心を掴んだと言って良い。
 
2人の成長過程において、それこそファンの間で氷河期と称される時期、それを乗り越えての蜜月、一言で「ふまけんの歴史」とまとめてしまうには尊すぎる重厚な時間を経ての、今の2人があること。
また、かつてのように2人が先頭に立って引き連れていくグループではなく、均整のとれた5人グループとなり、こうして成長してゆく今のSexyZoneの中で、自分たちの在り方の最良の形を彼らなりに見出したこと。
 
それらが起因して、シンメ厨が喜ぶような絡みが目立たなくなったのではないかと考えられる。
 
 
ここまでは前置きである。
ここからは、前述の現状を理解しつつも、なおふまけんクラスタであり続ける私が何故ふまけんに魅せられるのかを考察していく。
 
 
 
①絶対的シンメの希少性
 
「中島のないところに菊池は立たぬ」(出典:Sexyことわざzone)と言うように(※言わない)、菊池の隣には必ず中島が存在する。
残念ながら、「菊池のないところにも中島は立つ」のが菊池担としては若干悔しいところではあるが…
「健人くんがいてくれるから風磨くんもこうして存在してる!」という感覚は、菊池担共通のものではなかろうか。
 
ふまけんは入所して即シンメになり、所属してきたユニットのあれこれを経て、SexyZoneとしてデビューし今日に至るまで、常にシンメであり続けた。
ふまけんをシンメ以外の言葉で表すことは不可能。彼ら自身がシンメであることに酔っているほど、2人はいつ何時も必ず対を成し、2人の世界を確立している。
中島に比べ表立って相方について語ることの少ない菊池も、一番その魅力を知っているのは彼自身であり、中島を語らせれば彼の右に出る者はまずいないだろう。
 
SexyZoneになってからの菊池は、以前と比べて自らふまけんを全面に出してくることがなくなり、一見するとあの2人は仲が悪いのではないかと疑われることもあるほど、普段からシンメを誇張しなくなった。
しかし、菊池は中島に対していつでも敬意を払い、あいつには俺にできないことができる。すごい奴。と、常に惜しげも無く相方を褒める。
 
「中島を馬鹿にしていいのは俺だけ」「自分が本気で何かしようと思った時、必要なのは中島なんだ」などと本人に向かって言えてしまう。
 
雨降ってふまけん固まる、ではないが、氷河期を超えて新たなステージに立ったふまけんの絆はより一層強いものとなった。
まさに、絶対的シンメである。
実は近年、ふまけんのような関係性にあるシンメは希少な存在になっているように感じる。
 
 
Jr内シンメにあたる2人組はいくらか思い当たる(ここでは、現在固定された2人組をとりあえずシンメと呼ぶことにする。)が、該当担には申し訳ないが、シンメ好きを唸らせるだけの関係性を持った2人はなかなか見ない。
また、現在シンメとして活動している2人も、元は他のJrと組まされていたり、次々に相方をあてがわれていく中でなんとなく一緒にされる時間が長くなったからシンメとして捉えられるようになったりと、ふまけんのように、はじめから今まで一貫して隣にいるのはお互いの存在だけ、という2人組はそういるものではない。
 
さらに、単なるコンビとシンメとでは大きく違い、シンメの深さは「コンビ萌え」のような気軽さでは語り尽くせない。
よって、シンメと言うからにはそれが絶対的であることは本来必要不可欠だと私は考える。
 
 
②に記述するつもりだが、私は長くこちらの世界を見ておきながら、ふまけんと類似するタイプのシンメに堕ちたことがこれまでになかった。
それは私が嵐を基盤としていたからとも言えるが、そもそもシンメ売りに興味を持たなかったからなのかもしれない。その私が、つまり仁亀にはそこまで大きな興味を示さなかった私が、ふまけんの存在と関係性に震えた理由は、次に挙げていく。
 
 
②背中合わせのシンメであること
 
中島と菊池が絶対的シンメであることは前述の通りだが、ここでの大きなポイントは、シンメとしての形だ。
 
 個人的な趣味になってしまうが、私は「子どもの頃からずっと一緒だった」系にめっぽう弱い。
しかし、一緒の「形」に拘りは特になかった。
これは私が国民的アイドル嵐先輩において、頭一つ分飛び抜けて、にのあい好きということをお分かりいただけていればご理解いただけるかと思う。
 
つまり、にのあいとふまけんとでは、同じ1歳差シンメであり、更に入所からデビューまでの期間も似ているなど、共通点は多々あるものの、シンメとしての形は全然違う。
それでも両者とも特別に好きな組み合わせには違いないので、一緒の「形」に拘りはない、というわけだ。
 
にのあいは言ってみれば、手を繋ぎ、肩を組んで同じ歩幅であるいてきた2人である。
転びそうになれば手を握り、転んでしまえばバカだなと笑いながら慰める。道端に咲いたたんぽぽを共に摘み、雨が降れば虹の出現を共に待つ。
 
なんだか詩的になってしまったが、そんな関係性がにのあいだと勝手ながら解釈している。
シンメでありながら、幼友達、仲間という言葉がよく似合う。
(にのあいはコンビだという感覚のファンが最近は多い気がするが、元来にのあいはシンメである。私はあくまでもにのあいはシンメだと主張する。)
 
これと比較すると、ふまけんは決してにのあいと同じシンメの形を成さない。
互いが互いを良きライバルとし、何より互いをシンメとして強く意識している。そして、2人とも極度の負けず嫌いであり、切磋琢磨し合って今の位置を築き上げてきたからこそ、「こいつが隣にいたから頑張れた」という静かで熱い主張が決して鬱陶しいものにはならずに我々の胸を打つ。それがふまけんらしさである。
 
 
シンメとは生涯の伴侶をあてがわれる制度、とはよく言ったものだが、それが将来的にどういう形を成してゆくかは本人たち次第だ。
 
ふまけんの場合、背中合わせのシンメであることを自分たちで選んだ。
それぞれが独自の世界を持っている。しかしそれを互いに認め合っている。手を取り合って進むのではなく、いざというとき拳を突き合わせ意志を確かめ合う関係性。転んだ相方が立ち上がるまで、じっと見守る。道端に咲いたたんぽぽには気づかないふりをしても、本当は2人とも心で美しさを語り合っている。陰と陽の対を成す2人だが、誰よりも互いを尊敬し合っているのがこのタイプのシンメだと考えている。
ふまけんはまさしくその典型だ。歩幅が揃わず行き違うことがあっても、互いに預け合った背中で強く結ばれているのだ。
 
 
③記号化されたアイドルと、普通を主張する「特別」な存在
 
中島健人という男は凄い。
こんなにも真面目にキャラクターを守り、アイドルであり王子様である自分に忠実に生きるジャニーズに、私は初めて出会った。
 
作られ演じられたキャラクターではなく、彼の生まれ持ったアイドル性が、その性格や生き様とあいまって自然発生的に産み出されたものと考えると、もはや彼はアイドルを飛び越えた中島健人」という「確固たる存在」である。
 
一種のブランドと称するべきか、アイコンと表現すべきか。
いずれにしても、近年の中島を見ていると、既にジャニーズの中島健人として記号化され象徴的な存在となったように感じる。
 
とは言え、完璧なアイドル像を具現化した存在でありながら、極めて人間的な部分であったり、「そのへんにいそうな大学生」が持つ、ごく一般的な感覚も共存している点が、中島の凄いところだ。
演じ分けているのでも、オンとオフで切り替わるのでもない。みんなから見えるところに自らのすべてをディスプレイし、これが中島健人だと発信する。
 
 
シンメの片割れがこれだけ注目される存在であれば、誰しも自己の在り方に悩む瞬間はあることだろう。
そういった中で菊池は、あくまでも「普通」であることでアイデンティティを確立しようとした。
 
ー俺は中島のようにはなれないし、なろうとも思わない。俺は俺らしく、俺のやり方でこの仕事を全うする。ー
 
中島がもし、今と違うキャラクターだったら、菊池のやり方も違っていたのかもしれない。
とかく菊池は必ずしも相方・中島健人と相対的に自らを見出そうとした。中島のシンメとして自分を位置づけようとした。
そして、中島とは違う俺らしさを出していきたい、それが素のままの自分=普通であること、だった。
分かる人が分かればいい主義の、菊池らしいやり方だ。しかしそれこそが「特別」であることに、菊池自身はきっとまだ気づいていない。
 
 
菊池にとっての中島が唯一無二の相方であるように、中島にとっての菊池もまた他にかえられない絶対的存在なのである。
中島が世間一般から「確固たる存在」として認められた、記号化されたアイドルならば、菊池は中島が認めている「確固たる存在」なのだ。
中島のようなキラキラアイドルとは違う、あくまでも普通の男子であることを認められたい菊池が見せようとする彼らしさ、これこそ確固たる菊池風磨なのであり、中島からすれば特別な存在に他ならない。
 
 
先程も書いたが、中島も菊池もそれぞれに独自の世界を持っていて、それを互いに認め合っている。
それだけに、2人とも単独でもしっかりと成り立つ。
しかし、2人が一緒になった時のみ放たれる、とんでもなく大きなパワーを持った光の眩さ、美しさ、強さに、我々はいつでも魅了されてしまうのかもしれない。ファンである私からすれば、中島も菊池も、かけがえのない特別な存在なのだ。
 
 
④ビジネスシンメの未来
 
グループ内で象徴的存在となったシンメは、元々仲良しの2人であっても、必然的に表向き仕事向きに自らを発信していくことになるので、単純な仲良しコンビとは違った、対外的な仕事上の付き合い方を学ぶようになる。
 
私はビジネスシンメが嫌いではない。
ふまけんにはもちろん仲良くしていて欲しいとは思うが、かと言ってベタベタして欲しくはないし、付かず離れず、でも時折背中を預け合って頭をもたれかかっているような関係で居続けて欲しいと願う。
 
菊池から持ち出される「ナカジマのこと」は、今くらいがちょうど良いし、ハタチを超えたからと言って、すぐに2人きりで飲みに行かなくて良い。それこそサシ飲みは、機は熟した、といった時に万を時して行っていただきたいものだ。
きっと2人とも、妙に緊張感に溢れていて、でも本当は嬉しくて、上手く言葉にならないけれど、こいつが相方で良かったと再確認するような、そんな時間を過ごすのだろう。
 
その時の2人を想うだけで感慨深く、ただただ尊く、愛おしく、胸が熱くなる。
だからふまけんはやめられない。
だから私は、今なお、ふまけんを愛してやまないのである。